キャッチボール・イン・ニューヨーク
1984年頃、当時あったニューヨークのオフィスでパーティーを開きました。
そこには、出席者がおつれの二人の子どももいました。彼らはとてもシャイで、お父さんの足につかまったたまま、そこを離れようとしません。まわりにいる人たちが、食べ物を持っていったり、話しかけても、よけい頑なになってしまうだけ。
その子どもたちの母親(日本から米国に駐在している人)は、困り果てたようにわたしに訴えました。
「この子たちは人見知りが激しいんです。どうしたらいいでしょう?」
当時、わたしには子どももおらず、どうしていいものか困ってしまいました。
ふと見回すと、そこにバスケットボールがあったのです。でも、相手は幼い子どもですから、いきなりボールを投げるわけにはいきません。そこで、試しにボールを彼らの足元に転がしてみました。
すると、どうでしょう。男の子のほうがすばやく父親の足元から離れて、そのボールを拾うと、わたしのほうに転がしてきたのです。もちろん、転がすとすぐに戻って、父親にしがみつきましたが。
わたしは、今度は妹のほうへとボールを転がしました。すると、妹も、お兄さんと同じように、わたしのほうに転がしてきては、急いで父親にしがみつきました。
こうして、わたしは二人に交互にボールを転がし続けました。いつしか、彼らは父親の足元に戻らずに、わたしから返されるボールを待つようになっていました。
それを続けているうちに、床を転がしていたボールは次第にキャッチボールに変わりました。もちろん、受け損なったり、落としたりすることもあるのですが、それがまた楽しいらしく、子どもたちは声をあげて笑い、徐々に、わたしに話しかけてくるようになりました。
そうしてひとしきりキャッチボールが終わると、彼らは部屋中を走り廻り、他の大人たちとも話したり遊んだりし始めたのでした。
***
そこでの出来事は、それは大きな刺激となりました。
もしかしたら、言葉そのものよりも、そこにキャッチボールがあることが大切なのではないか、と思うようになったのです。
それまでわたしは、コミュニケーションが相手や自分に与える影響について、あくまでも言語とその内容に焦点を当てて探求していました。しかし、実はコミュニケーションという行為そのものが、すでに、お互いになんらかの影響を与えているのではないかと考え始めたのです。
そして、それは、そのとおりでした。
伊藤守著『コミュニケーションはキャッチボール』(ディスカヴァー刊)より