最初のキャッチボール
1984年の春、コミュニケーションの研修の講師をしていたときのことです。
そこに、ひとりの中学校の先生が参加しました。女性で、年齢は三十歳ぐらいだったと思います。彼女は、とても警戒心の強い、論理的でないことは受けつけないタイプでした。
少し打ち解けて話したいと思い、いろいろ試しました。しかし、言葉を交わしても、かみ合わない。言葉上の意味は通じているのだけれど、「伝わっている」という実感がない。言葉は交わしているけれど、気もちはつながっていないという状態です。だから、不全感だけが募り、疲れてしまう。そんなやりとりが三十分から四十分続いたでしょうか。いよいよわたしも打つ手がなくなり、沈黙が続きました。
そのときです。たまたま部屋の中にあったゴムボールが目に入りました。わたしは研修のときに、よくいろいろなものを持ち込みます。コミュニケーションが途絶えたときに使う道具としてです。ゴムボールはそのひとつでした。
わたしは、そのボールを拾って、彼女に向かってちょっと投げてみました。
おもしろいことに、人って、ボールを投げると、受け取って、それから、必ず投げ返してくるんですね。そのときの彼女もそうでした。自然に私にボールを投げ返してきました。そこで、わたしはまた彼女にボールを投げました。するとまた返してきました。
次にまたボールを投げるとき、彼女に向かって言いました。
「あんまり、話がかみあわないね」
そうしたら彼女がボールを投げ返しながら、「そうね」と言いました。
「そうね」は、彼女との会話における最初の同意でした。それまでの二人の会話にはなんの同意もありませんでしたから。
コミュニケーションとは、キャッチボールを繰り返しながら、最終的に同意に向けて行われるものです。同意のないコミュニケーションは、人を疲弊させます。未来が閉ざされる感じを受けるのだと思います。
それでわたしは、彼女に向かって「同意があったね」と言ってボールを投げました。すると彼女から「そうね」って。
これが二つ目の同意でした。
こうなると、すごく感じがよくなってくるんです。そこで、ボールを投げながら尋ねました。
「学校はどうなの?」
「たいへんなのよ」と投げ返してきました。
「子どもが?」と聞いたら、
「子どもも」
「子どもだけじゃないんだ?」
「親もね。それから同僚の先生もね、上の先生もたいへん」
「何がどうたいへんなの?」
「やっぱり間違っちゃいけない、正しくなければいけないとか、模範じゃなければいけないっていうのに、ちょっと疲れたのかな」
彼女は、そう言いながらボールを投げ返してきました。
そこで、わたしはまたボールを投げながら言いました。
「そういうことを思っていたんだね」
「そういうことを思っていたのよ」
「早く言ってよ」
「言いにくかったから」
「そうか」
「うん」
それが、はじめてのキャッチボールでした。
彼女とのキャッチボールをしながらのコミュニケーションはとても楽で、言葉も出やすく、そして、聞き取りやすいものでした。キャッチボールが、適度な集中とリラックス、そしてコミュニケーションの楽しさをもたらしたのです。おそらくボールをやりとりすることで、それまで頭と頭で行われていた「やりとり」が、身体のレベルまで下りてきたのだと思います。
でも、そのときは、まだ、キャッチボールがコミュニケーションに影響を与えるとは思っていませんでした。しかし、それから数ヶ月して、その先生から手紙が届きました。
「いま、わたしは、生徒とときどきキャッチボールをしています」
伊藤守著『コミュニケーションはキャッチボール』(ディスカヴァー刊)より