学習障害(LD)
学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの特定の能力の習得と使用に著しい困難を示す、様々な障害を指します。また学習障害は、その背景として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されているものです。
学習障害には以下のような分類があります。
- 読字障害 Reading Disorder
絵や図形を正しく判断できない。書かれていることの意味がわからない。
- 算数障害 Mathematics Disorder
数字を使ったり、数学の問題を解くことに困難を生じる。
- 書字表出障害 Disorder of Written Expression
書くことに困難を生じる。書きたいことは分かっていても、文字として表現できない。
またADD/ADHD(注意欠陥多動性障害)も学習障害に含まれることがあります。これは1)多動性:常に動き回り、落ち着きがない、2)注意の転導性:注意を集中している時間が短く、気が散りやすい、3)衝動性:すぐにカッなったり、話を最後まで聞くことができない、などの症状が確認されます。
結論から
学習障害(Learning Disability)は今の教育やそれに伴う評価システムにおいては特別な例ではなく、多くの子ども、そしておとなに見られます。多くの場合、本人や廻りがそのことに気づかず、自分を生かすチャンスを失っています。
人はそれぞれ違うから、学習の方法を変えさえすれば、「学びたい」という欲求を育てることができるはずです。それが学校の成績に直結するかどうかは定かではありませんが、人として満足できるようになるでしょう。
人間という種は、学校の成績がいい人だけを必要としているわけではありません。運動能力、創造力、表現力、感受性、そしてどれにも当てはまらないように見える人もいます。また、時には100年に一度必要とされる能力を秘めている人もいます。既成概念では乗り越えられない現実にぶつかったときの「予言者」とか…。1000年に一度でいいかもしれない。
要するに
人が人を評価するシステムは、時代の要請に応じて決められているのです。だからといって、あなたがその評価システムに全部取り込まれる必要はありません。今の評価システムを正しく評価しつつ、自分の「独自性」をしっかりと見据えるべきだと私は思います。
学校の成績やそれにまつわる評価システムの中で、あなたは、あなたの素晴らしさを見つける権利と義務があると思うから…。
私はいま、現在進行形
山あり谷あり
何故いろいろな人がいるのか
人に血液型があるのは、人類が全部同じ血液型であったら種の存続が危うくなってしまう、という無意識の知恵からくるものです。たとえば、A型はペストなどの伝染病に強かったり、ヨーロッパ大陸からリスクを冒してアメリカ大陸に渡った人たちにはO型が多かったりします。人類が生き残るための知恵は、血液型だけではなく、性格にも表れるでしょう。全部が明るい人では種にとってまずいのです。
先日、将棋界の鈴木八段とこんな話をしました。
「四段になるとプロになるのですが、将棋のプロになるような人は、国算理社はオール5。ただ、体育は1に決まっています。」
「みなさんそうですか?」
「タイトルホルダーは、全員体育が1です。ちなみに、当時米長名人がプールに通い始めたという噂を聞いた羽生さんが、『米長先生泳げるんですか?』と聞いたところ『いや、歩いている』と答えたそうです。」
「なるほど。ところで鈴木八段はいつタイトルを取るのですか?」
「私は残念ながらダメです」
「どうしてですか?」
「体育が2でした」
なまじ運動神経なんかあると、将棋盤の前に7時間も8時間も座っていられないのだそうです。座布団に膝がめり込んで跡をつけちゃうような人でないと、将棋差しとしては大成しないのかもしれません。
私の場合
ちなみに私は「緑青赤」色弱であり、読字障害があり、ややリズムをはずす傾向があります。それから、方向音痴です。それ以外にも気がついていないことがいくつもあると思います。
読字障害については、後で日経サイエンスに掲載されたものをご紹介しますが、私には、単語や固有名詞を覚えるのがとても難しい。映画を観ても、登場人物の名前はほとんど覚えることができません。したがって、学校の試験はとても苦手でした。本を読んだり勉強したりすることに抵抗はないのですが、どんなに反復練習しても、単語は頭に残りません。もちろんこうして字が書けるのですから、多少は頭に残ったわけですが、それは覚える努力の結果ではありません。おそらく、まったく別のルートで記憶したのだと思います。実際、単語や名詞の記憶力の高い人たち、パズルを解く能力の高い人たちは、努力して成績が良いわけではなく、脳の情報処理の仕方が違うのだと思います。
小学生の頃は「字違いの多い子」と母に言われていました。そして、その傾向はどうも父や祖父にも見られました。でもその頃、「読字障害」という言葉はありませんでしたから、勉強が足りない、努力が足りないということであっさりと片づけられたように思います。しかも、頭がいい、悪いのランキングでは決していい評価を受けることがありませんでした。また、成績の良い人たちは「頭がいい」だけではなく、それ以外の面でも優秀であるかのごとく扱ってしまう周囲の傾向に、ずいぶん気落ちしたものです。このことは、学生生活を少し重たいものにしたと思います。
では、自信を失ってしまったのか? というと、そうでもなくて、ひとつは母や父が成績のことは叱責しながらも私に「頭のいい子」と言い続けたこと。実際、運動能力は平均よりも高く、また、人と話したり、自由な連想(物語)が好きで、やりたいことがたくさんありました。また、これといった理由はありませんが、自分の内側に「万能感」を感じていたことも事実です。記憶力は劣っているのですが、一方で、自分の勘や感受性に対する信頼は高かったように思います。
それでも、単語や名詞が覚えられないというコンプレックスが消えてなくなるわけではありませんでした。人の名前が思い出せなかったり、漢字が書けなかったりするとき、焦って冷や汗がでることもありました。
読字障害という言葉に出会ったのは40代後半になってからですが、自分が読字障害であることを知って、とても嬉しくなりました。この世界に読字障害をもった人がたくさんいること、そして彼らがとても個性的に活躍していることを知って、私は自分がずっと身近に感じられるようになりました。
人は誰でも学びたいと思っている
人が目や耳を通して情報を取り込むとき、その情報処理にはパターンがあることがわかってきました。
「ヴィジュアル Visual」 視覚系(絵にして理解する)
「オーディトリー-デジタル Auditory- Digital」 聴覚言語系(言葉として論理的に理解する)
「キネスセティック Kinesthetic」 皮膚感覚系(体の感じで理解、判断する)
情報処理のパターンに、この3種類があることがわかっています。ヴィジュアル系の人には、絵になるように話した方が理解を促しやすいという特徴があります。そのように、人の話を聞いているときに頭の中で絵を思い浮かべながら理解するタイプの人もいますし、言葉をつなぎ合わせて理解するタイプの人もいます。また、いい感じ、不快な感じなどで理解し、記憶するタイプの人もいます。
タイプに合わせた学習方法が取られれば、ずいぶん効果的に数学や物理、歴史や古文を理解することができるようになるでしょう。そういう意味では、コンピューターによる学習のサポートシステムには期待するものがあります。
いずれにしても、人は「学びたい」と思っているわけです。だからその欲求を満たすことが何よりも大事です。意欲こそが、すべての源になります。教え込むのではなく、意欲を見つけて引き出す。
だから、意欲をそぐような、精神的、心理的バイアスを取り除くことが、何よりも大事です。自分が読字障害であるということを知れば、別の学習方法を取り入れるという選択肢がそこに生じるからです。
情報処理のパターン
これは「学習スタイルについて」というタイトルのコラムで紹介しています。でも、感覚器官である目や耳は、情報を通過させているのであり、実際に、見たり聞いたりしているのは脳なわけです。別の見方をすれば、脳が何を見て、何を聞くかを事前に選択しているということです。すなわち、見たいものを見たいように、聞きたいことを聞きたいように聞いているわけです。それ以外の物は、あっても見えないのではないでしょうか? どんな誉め言葉も、ある人にとっては猜疑心を刺激するだけなのです。
量子(クオンタム)は観察者が「点」だと思えば「点」に見え、「線」だと思えば「線」に見える。量子の世界では観察者の意図がどうも反映してしまうらしいのです。人間の世界でも同じですよね。
読字障害についての参考サイト
日経サイエンス 1997年2月号
http://www.nikkei-science.com/
読字障害のチェックリストはこちら。
|