Editor's Room

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2015年2月13日(金) 「みかん」

みかんと言えばこたつ、こたつと言えばみかんだが、我が家にはみかんはあるが、こたつがない。行き場がないみかんは、冷蔵庫で寒そうに冷えている。「どうしても今この瞬間、みかんしか食べたくない!」という機会はほとんどないのに、なぜか冬は常にみかんが家にある。そしてなんとなく目について、なんとなく食べてしまう。なくなったら、なんとなく買い足す。好きなフルーツに挙げることはないが、アロマオイルで決まって選ぶのはオレンジである。考えてみたら、みかんって存在について考えたことがなかった。みかんとは不思議な存在である。(M)

芥川龍之介の小説「蜜柑」の発表から96年後。横須賀発の列車の終着駅となる東京駅のホームの階段に鮮やかな色の蜜柑が落ちていた。96年前、下等な、退屈な人生を送っている「云ひやうのない疲労と倦怠」を抱えた一人の男の見た風景を、下等な、退屈な人生を送っている寝不足(深夜番組見ていた)という明確な疲労と倦怠を抱えた男が見たところで、96年前の男のように、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事は出来ず、求めるのはただただ社内への仮眠室設置である。何故、蜜柑が階段に落ちていたのだろう。不可解である。小説の「蜜柑」では、奉公に出る娘が踏切の端に見送りに来た弟たちの労をねぎらって、車内から鮮やかな色の蜜柑を5つばかりまく。奉公に出る娘もいない、車内の窓の開かない電車がほとんどの96年後の今、駅の階段に蜜柑が堕ちている理由とは。たまに道路で靴の片一方が落ちていたりする不可解さと同種か。96年前の横須賀線の線路端の蜜柑はそれを食す弟を一時の幸せをもたらし、96年後の東京駅の階段のホームの蜜柑はきっと踏んでしまった通勤客を一時の不幸に陥れるだろう。われわれ現代人は昔の何かを忘れてしまったのだろうか。東京駅の階段に堕ちていた蜜柑は現代社会への皮肉である、と書くと評論風であるが、そうしたことを私は主張したいわけではない。早く寝たいだけである。(HK)

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