Editor's Room

itoh.com の舞台ウラをリアルタイムにご報告します。

2009年3月6日(金) 「勝負」

今はやっていないが、友人と集まってよくトランプ大会をやっていた。私たちは何も賭けずに、純粋にゲームを楽しむ。旅行に行けば、移動時間、待ち時間、寝る時間を惜しんでトランプに興じる。沖縄に行ったとき(すごく昔だが)は、泳がずにビーチでトランプを何時間もやってしまい、やけどのような激しい日焼けをした。京都に紅葉狩りに行ったときは、京都駅で、伊豆に行けば踊り子号の中で・・・と時間も場所も選ばない。勝負をすれば必ず誰かが勝ち、誰かが負ける。負けた人は次の勝負に勝ちたいと思い、勝った人は次も勝ちたいと思うので、いつまでも終わらない。「あと何回ね」と言いながら、絶対にそれでは終わらない。何も賭けないのにどうして勝ちたいのだろう。負けたからと言って失うものもない。勝利に対する人間の心理というのは不思議だと思う。いつかまた太陽が昇り始めるまでトランプがしたいものだ。(M)

勝負というからには、必ず一方が勝ち、かたや負ける(引き分けというパターンは無視する。論旨の都合であるが、川渕三郎Jリーグ初代チェアマンは「引き分けは日本の文化にそぐわない」と言っていたので、Jリーグファンとして尊重したい)。誰もが私は負け組と思われているかもしれないが、笑止千万である。私は勝ち組人生を送っている。「負けるが勝ち」という格言があるからだ。私は人生で麻雀を2回しかやったことないが、2回ともボロ負けした。だが私は悲嘆していない。勝利に喜ぶ友人の笑顔を見て、「ああ、人を幸せにすることができた」と。こういう思いに至るのは多少の勝ち負けを超越した、人生の勝利者と言えるのではなかろうか。誰もが勝利者になりたいだろう。もし私の周りの人間が全員このような考え方をすれば、私は人生の敗北者となってもいい。目先の勝利にこだわるだけだ。目先の勝利にさもしくはしゃぐ私を見て、「麻雀では負けたが、人生では勝った」と思えということだ。ようするに私に目先の勝ちを、手加減するなり、考えうるあらゆる手段を用いて譲れということだ。そうしたら2回という早期引退に追い込まれた麻雀の世界へ現役復帰するのはやぶさかではない。(HK)

昔はじゃんけんが強かった。じゃんけんするとき、負ける気がしなかった。日ごろ見せないような集中力と瞬発力でグーチョキパーを繰り出し、勝利の歴史を積み重ねていた。もちろん負けることもあったが、そういうときは、手を出す前に負けに気づいた。そして一瞬の読み違いを悔しがり、次への闘志を燃やした。しかしあるとき、わたしはじゃんけんで勝つことへの情熱を失ってしまった。なぜか、「勝っても負けてもどっちでもいい」という、仙人のような心境に至ってしまったのだ(仙人の心境は想像です)。たぶん昔は、じゃんけんの勝敗によって食べものとかプレゼントを選ぶ順番が決まることが多い環境におり、それが何より重大だったのが、大人になるにつれ、食べものもプレゼントも他の人がそんなに欲しいなら譲ってあげる、と思うようになってしまったせいだと思う。大人になったというよりは、なんとなく老人になった気分である。次にじゃんけんをすることがあったら、勝つことにこだわって集中してみようと思う。なにか新たに気づくことがあるかもしれない。(MT)

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