Editor's Room

itoh.com の舞台ウラをリアルタイムにご報告します。

2007年12月7日(金) 「わたしの子どもっぽい一面」

ときどきいたずらしたくなる人に出会う。少し前に会ったその人を仮にNさんとしよう。以前、Nさんとどこかのブランドのファミリーセールに行ったときのことである。会場に入った私たちは待ち合わせ時間を決めて、別行動することにした。少し物色したところで私は、人の多さにうんざりして、ぼーっと立ちつくしていた。すると、ハンガーに掛けられている服を物色しているNさんを視線の先に発見。これはチャンスとばかりに、私はそーっと背後から近寄って、Nさんが手にしていた洋服を奪おうと引っ張った。Nさんはとても驚いて、私のほうをぱっと見た。少しの間があって、私たちは爆笑した。「どこの図々しい人かと思ったよ」とNさん。いたずらは見事に成功し、また私たちは、分かれて物色することにした。しばらくするとまた視線の先にNさんが。今度はワゴンの中の服を見ていた。私はまた背後から忍び寄り、混んでもいないのにNさんを押しのけて、服を奪い取ったNさんは再びとても驚いて、ぱっと振り返った。私たちは再び爆笑。2度も引っかかるとは(笑)。と、私にはこういう子どもっぽい一面がある。そして、こういういたずらをするときは、周囲の人の目はまったく気にならないから不思議である。(M)

困惑している。私自身子どもっぽさなど微塵も感じない。私は「♪ダバダ~」のCMでおなじみの『違いの分かる男』そのものである。このお題を書くには虚構の世界に身をおくしかない・・・このようなことを書くこと自体が子どもっぽい。これを書きながら「♪ダバダ~ ダバダ~ ダ~」と口ずさんだりしているので、さらに致命的だ。私の身体のすみからすみまで、朝から晩まで、ゆりかごから墓場まで子どもっぽいのは否定しない。「少年の輝きを失わない」と自分では言い換えているが、周りの人間は国語力がないのか「ガキっぽい」と言い換える。このような私からみればとんでもなく間違った言い換えは、ひとえに私の人徳のせいだ。堯舜禹への道のりは東武大師線程度だと思っていたが、シベリア鉄道並みに長いようだ(ローカルな東武大師線の説明は割愛するが、シベリア鉄道との比較で察してほしい。要するに文脈で読んでほしいという懇願である)。他のエディターは一つのエピソードに絞ることによって言外で「私は本当は大人らしい」とアピールしたいようだが、私のチャイルドっぽさ(ルー語)についてはオール(ルー語)なので、なかなかワン(ルー語)に絞ることが出来ない。このように子どもっぽさの具体的なエピソードに言及せずに自らを子どもっぽいと認める潔さによって、実は自分が大人ではないかと思えてきた。いや、もう大人そのものだ。大人だ、大人!アダルトだ!!と、このように簡単に浮かれることこそ、私の子どもっぽさの最大の特色だ。ルー語を混ぜたくなったのも子どもっぽさの証明だ。(HK)

わたしは普段よく鼻歌を歌うのですが、できればいつでも好きなだけ好きな音量で鼻歌を歌いたいと思っています。誰かと一緒にいるときは遠慮なく歌えることがありますが、一人のときは、奇異な目で見られるのが恥ずかしいので、自分にしか聞こえないくらいの小さな音量になります。ときどき駅のホームなどで踊りたくなるときもあります。誰かと一緒の場合も、踊りはなかなか勇気が出ません。街で見かける子どもは、たいてい人目を気にせず歌ったり踊ったり物まねをしたり看板の文字を大声で読んだりしていますが、誰も気に留めません。子どもとしては普通のことだからです。そんなときわたしは、「ああ、わたしも8歳児に見えたら・・・」とか、「ああ、なぜ大人が大声で鼻歌を歌うのはおかしな行為に見えるのだろう」などと考え、子どもたちを羨望のまなざしで見つめてしまいます。ときどき無自覚で鼻歌を歌いながら買い物をしていると、お店の人に「ご機嫌ですね」などと言われて驚くことがあります。人は、機嫌の良いときに鼻歌を歌うものなのでしょうか。わたしの場合は、機嫌の良し悪しと鼻歌は無関係(たぶん)なのですが。あ、「いつでも歌ったり踊ったりしたくなってしまうのが、わたしの子どもっぽい一面かしら」という投稿でした。(MT)

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