itoh.com の舞台ウラをリアルタイムにご報告します。
2006年5月19日(金) 「修学旅行」
私の子どもの頃は、修学旅行といえば秋でしたが、最近は、5、6月に、修学旅行生をよく見かけます。修学旅行の季節は変わったのでしょうか。以前、国連関係の団体に勤めていましたが、この季節になると、日本全国各地の中学・高校生が、国連の仕事について知りたいと、見学にやってきたものです。毎日毎日、スタッフが交代で、説明会をしました。最近の修学旅行生は、各グループでテーマをもって、そのテーマに基づいて見学するところを決め、関連するいくつかの団体を訪問するということをやっているようです。たとえば、私たちのところを訪問してくる子どもたちは、ほかに、国際協力のNPOやボランティア団体を訪問するといったように。社会科見学を兼ねているんですね。先日、千葉工業大学の中にある未来ロボット技術研究所というところを訪問しました。やはりそこにも、たくさんの修学旅行生がやってくるそうです。東京の中学生の修学旅行も、地方に行って、こうして企業や団体を訪問しているのでしょうか。それともやっぱり、東京からの修学旅行生は、史跡を訪ねているのかな。出身地によって、訪ねる場所だけではなく、修学旅行の内容も違うんでしょうね。(C)
小学校の修学旅行は奈良・京都で、大仏、鹿、清水寺、金閣寺などを訪ねました。中学の修学旅行は、新幹線で東京。途中、富士山に登ったりしながら、国会議事堂、皇居、そしてディズニーランドに行きました。友達はみんなミッキーの耳を頭に付けていましたが、私は当時14才にしてそれを拒否。かわいくない子供(?)でした。高校は長野にスキー。グループに分かれてのスキー研修でした。他のグループはインストラクターがやさしくて楽しそうだったのに、私たちのグループはなぜかスパルタ。インストラクターと撮ったグループ別の記念写真では、みんながムッとした表情で写っています。当時、私は隣のクラスのある男の子に憧れていました。修学旅行中はずっとその子のことを目で追っていました。たまたま一緒に写った写真を(もちろん彼は小さくしか写っていない)ずっと大切に持ち歩いていたのを今でも覚えています。先日、その彼が病気で亡くなった事を知りました。ショックが大きく、未だにうまく言葉が出ないのですが、何かが終わってしまったような、大きな喪失感があります。今はとにかく天国で幸せになってほしいと願わずにはいられません。(M)
修学旅行でテーマパークに行くというような遊び心が全くなかった私の学校。行くところは寺社、城、博物館ばかりであった。今はテーマパークよりも寺や城のほうが好きで、修学旅行で訪れた場所は、今では何度行っても飽きないところばかりなのだが、あの頃は何でこんなつまらないところに連れ回されなきゃいけないのだと思っていた。そのせいか、何が思い出すことといえば、、、小学校の時はバスが首都高速の渋滞にはまって「首都低速、首都低速」とバカみたいに(いや、バカみたいじゃなくて実際にバカだったのだが)喜んでいたことしか思い出せず、中学高校の修学旅行では緊迫した空気に包まれた夜が最大かつ唯一の思い出だ。消灯後、普通だったら枕投げとか始まるところだが、我々は静かであった。一番最初に寝た人がいたずらの餌食となるため、お互いが寝たふりをするなど牽制しあうのだ。そして静寂な空気に負けた誰かが寝息を立てた瞬間、周りの人がむくっと起き上がって、いたずらが開始される。鼻はつままれ、変な顔にされたり、髪は天才ヘアスタイリストの手にかかって奇抜なヘアスタイルとなり、顔には鬼才のアーティストによってイラストがほどこされる。そして写真をパチリ。男子校だったので、容赦はない。当時はまだカメラ屋という防波堤があったが、携帯電話にカメラがついている今の時代だったらと思うと、ぞっとしてしまう。いたずらされた人が起きたら、あとは大騒ぎでみんなで過ごす夜を満喫し、全員正座、そして首謀者に対する殴打という処罰が行われ、ようやく本来の就寝時間がやってくる。修学旅行というのは私にとってはみんなで過ごすということが唯一の目的だったかもしれない。ところで高校の修学旅行の行き先は九州だったのだが、行きは新幹線で、帰りは寝台特急。これは校長が飛行機嫌いで「飛行機なんか危険な乗りものに大切な生徒を乗せて、万が一のことがあったらどう責任を取るのだ」という飛行機に対する誤解からの誤った責任感に基づくものだが、高校1年の夏休みに校長曰く「国際感覚に優れた人材を育てるため」とアメリカ研修をおこない、大切な生徒を百人以上危険な飛行機に率先して乗せているのはどういうことなのだろうか。(HK)