例えば、三歳とか四歳の子供とお母さんが一緒に歩いているとする。すると、子供って色んな質問してるんですね。あれなに、これなにって。それからなんでも全部自分でやってみたがります。例えばそこに針葉樹があると、「ねえねえ、どうしてあの木は冬なのに、ずうっと緑なの?」なんて聞く。お母さんはもちろんわからないので、「針葉樹だからよ」って言う。ところが子供は針葉樹なんて知りません。母親は「冬なのに緑ねぇ」なんて言って終わらせようとするけれど、子供は「でもこっちは落ちてるね」と、銀杏の葉っぱのところへ行って「どうしてこれは黄色になるのに、これは緑なの?」と聞く。そして苦しくなってきたお母さんは、伝家の宝刀を抜くわけです。「そうだ、お父さんに聞いてみよう」。
お父さんなんか、わかるわけないでしょう、自分の亭主なんですから。でも子供は、お父さんが帰ってくるのをずっと待っていて、「ただいま」と聞こえたとたん父親に駆け寄り、「ねえねえねえねえお父さん!」って聞くんです。
「何?」
「どうしてこの木は、いつまでも緑色なの?」
「ああ、そういうことはお母さんに聞きなさい」
「でもお母さんが、お父さんに聞けば何でも知ってるから聞けって言った」
「教育はママに任せているからママにもう一回聞いてごらん」
「ママ、やっぱりママに聞けって言われたよ」
それで、ママは仕方ないから「じゃ、百科事典調べましょう」なんて、だまされて買った百科事典を出してきて「針葉樹」を引いてみるわけだけど、それじゃ全然わからないですね。
「ね?ぇ全然わからない、どうして緑色なの?」
「そんなことはもうどうでもいいのよ!」
本当は、わからなくてもいいし、答えなくてもいいんです。子供が針葉樹を指さして、「どうしてこの木はいつまでも緑色なの?」なんて言ったときに、お母さんもわからないけど、そういうことに気がついたんだね、とか、へぇ、そういうこと思ってたんだね、とか、君ってそこにいるんだね、という信号を出せば、それで十分なんですよ。つまり受け入れるというのは、君は頭がいいね、と誉めることではなくて、君は確かにそこに存在しているね、君はそういうのを見ていたんだね、そういうことに気がついたんだね、という情報を飛ばすだけで、もう十分だということです。
君は確かにそこにいる、という承認が無い限り、人は決してあなたの話を聞くことは無いでしょう。その人に対して、君は大切な人だとか、君のことが好きだという情報を一方で飛ばさない限り、どこまで行っても決して言うことを聞くことは無い。兄弟であっても親子であっても、そのメッセージを飛ばさずに、人を動かすとか動機づけるなんてことは、まぁ有り得ないだろうと思います。でもみんな、何か正しいことを言えば人は動くんだって思ってる。それは人をロボットだと思っているからです。人は生き物で、脈絡が無いんだ、というのを知っている必要がある。人は感情で一発で変わってしまうんだ、っていうことについても知っていた方がいい。だって、そうだから。「君は大切な人だ」というメッセージを、無言であろうと言葉にしようと、きっちり伝えられていないと、それ以上難しい話は決して伝わることは無いだろう、というふうに思います。 |