それは、相手のインターフェースを探さないとダメですね。そのためにいくつか質問をしていって、相手のインターフェイス、その接点をちゃんと見つけていくのはすごく大事です。でもそれ以上に大事なのは、相手の存在をちゃんと受け入れていくこと。心のどこかで相手のことを「表面的なことしか言えないヤツだなぁ〜」って思っていると、全部顔に出ちゃいます。コミュニケーションの80%位は言葉以外のところで飛びますから。
以前教育委員会で講演したことがあるんですが、そこで質問が出たんです。「どういう時に子供を叱って、どういう時に子供を誉めますか?」と。「気が向いたら誉めて、叱らない」これが僕の答えなんですけど、そう言ったら先生が「そりゃイカン」と怒っちゃった。いいことしたら誉めて、悪いことしたら叱らないといけないんじゃないか、って言うから、「あんたそうすれば?」って言ったら、もう烈火のごとく怒ってしまった。だから質問受けるの嫌なんです。質問という名を借りて意見を言ってくるからね。ともかく、じゃあどういう時に誉めるんだって言うから、背中なんか見てね、子供の背中に結構哀愁感じるんですよ、で、「いい背中だね」って誉めるんだって言ったら、背中なんか誉めてどうするんだ? 余計なお世話だ、と。じゃあなんで叱らないんだ? 嫌われたくないからだ。子供なんかに嫌われたらもう生きていく術失っちゃう、嫌われたくないから絶対叱らない、ヨイショばっかりしてるんだ、と答えました。実際そうなんですけど。すると相手は、社会に順応させるために、やっぱりいい事したら誉めて、悪いことしたら叱らないといけないんじゃないかと言う。それは嫌だ、と。どうして嫌だ?
大人の顔色見て育つようなせこいガキになっちゃうから嫌だ、自分で考えて自分で行動できるようにしたい、と。するとなんで背中なんかに哀愁感じるんだ?って言うんですね。
それはね、子供が生まれた時に、まぁ今でもそうですけど、感動しましたよ、やっぱり。それに幼稚園の頃とか、あいつは半分も幼稚園に行かなかったんですけど、僕が会社に行こうとすると「行かないで」って言うんですよ。「どうするの?」って言うと、「一緒に遊ぼう」って言うんです。僕今まで一緒に遊ぼうなんてあんまり言ってもらったことないから、「一緒に遊ぼう」なんて言われると「会社なんかいいか」と思っちゃう。会社なんか、またあるわけですよ。講演会なんかいいわけです。そんなこと言うと、ひどい奴だって思われて終わるわけですけども、行かないんです。子供と日長一日遊んでるわけ。いいですよ。
皆さんはいろいろ奇跡を信じているかもしれないけど、この世の中の奇跡はたった一つです。あなたが存在する、ということですよ。でもそんなことみんなケロケロ忘れて、何ができるとかかにができるとか言ってる。生きてることの目的は、今日こっちは生きてるだけで十分です。明日もどうやって辛くも生き延びるか、これが人生の目的で、他にありません。幸せなんて最終目的じゃないんですよ。幸せになろうなんて思ってるからどんどん不幸せになっちゃうんで、思わなきゃいいんですから、そんなもんは。生きてりゃこっちのもんですよ。だから最近の僕のプロジェクトは、120まで生きる。あははは。こうなりゃ何かグズグズ言った奴なんかも平気ですよ、棺桶に座っちゃうもの。ほら、僕の方が生きてるだろう、って。長く生きた方がいいですよ。長く生きる、ということは、人生が機能的だった、ということだと思うんですよ。いいんです、嫌われようが何しようが。生きてればいいんです。存在してる、ってことが人生の究極のゴールで、そのゴールは既に達成してると思いますよ。後は全部おまけですから、好きなことやればいいじゃないですか、好きなだけ。責任は自分で取ればいいんですもん。 |