ある三十代後半の女性で学校の先生がいました。その人はクラスに一時もじっとしていない子供というのを抱えてしまった。彼女は彼のことを“チョロQ”と呼んでいた。ちょろちょろちょちょろしてるから。校長先生を呼んでも親も呼んでも、何を言ってもダメ、変わらない。チョロQを止める方法なんてもう無い。参ったなあ、どうしようかなあ、と思った。
でもある時、パッと目を開いて見たら「この子、どんな子だっけな?」って興味が湧いたんですって。“チョロQ”って呼んだ途端にレッテル貼っちゃいますから、それまではチョロQにしか見えなかったのに。それでしばらく見てたら、「かわいい」って思っちゃった、チョロQのこと。こいつのお陰で一年棒に振ったのにかわいいわけがないんだけど、よく洗濯された洋服着てて「あぁ、ちょろちょろしてるけど親はかわいがってるんだなあ」とか、白目と黒目の大きさがはっきりしてたりとかしてて「あぁなんだ、こういう子なのか」と思って、どんどん近づいていったら、この子のこと結構好きだと思ったんですって。一年棒に振ったのに何で?でも感情はまた別じゃないですか。仕方がないからチョロQのそばに行って、ぐっと低くなって腕をつかんだ。チョロQはまた怒られるだろうと思ってギョッとした。でも、グッと腕つかんで「今あたし思ったのよ」と言った。「なに先生?」「あんたのこと好きよ」。そうしたらチョロQ、ガーンとなって席に行って、ドタッて座っちゃったんだって。
それからちょろちょろすると、走って行ってチョロQを捕まえて「いい?あんたのこと好きよ」って言うんですって。チョロQはガーンとなって座る。半年ぐらい経つと、あんまりちょろちょろしなくなってきちゃった。そうすると先生は寂しい。それでチョロQに聞いた。「あんた最近ちっともちょろちょろしないじゃない」って。して欲しいのか?って思うんだけどね。ともかく、チョロQは「うん、しないよ」と答えた。「どうしてちょろちょろするのやめたの?」「だってね先生、毎日先生に好きだって言ってもらっちゃってね、足りちゃったんだ」「何が?」「オレ今まで好きだなんて言ってもらったことなんてないもん。毎日好きだって言われて、オレは気持ちが足りちゃったからもうあんまりちょろちょろしなくていいんだ」
みんな結構、友達になりたいわけですよ。友達になるために“わたしがいかに友達としてふさわしい人間なのか”をやると一生かかるかもしれないけど、「友達になりませんか」と言う分には数秒で済みます。でもそれは沽券にかかわるから言えないでしょう?コミュニケーションでも、自分の沽券とかプライドというのは、大きなテーマだということです。そこが何とかならない限り、コミュニケーションも難しい。みんな正論言うけれど、正論なんかで人は動きません。お友達になりたいなら「お友達になりたい」って言った方が早い。
コミュニケーションについて、みなさん誤解していますよ。これは僕の考えで正しいわけじゃないけれど、コミュニケーションはひたすら相手に要求することなんです。“口説く、誘う”がコミュニケーションなんです。何をして欲しいか、直接言えばいい。「友達になりたい」。これで終わりですよ。でもみんな怖いわけ。なりたくないって言われたらどうしよう、と思うから。なりたくないって言われたら、一歩左へずれて、次の人にまた「なろう」って言えばいいじゃない?人生のほとんどを何に費やすかというと、“わたしはいかに友達としてふさわしいか”“いかにわたしは奥さんとしてすばらしいか”“いかにわたしはちゃんと生きてる旦那なのか”。こればかりやってる間に人生終わっちゃいます。そういう人は来世楽しむっていうの?僕は今世を楽しみます。 |