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2005年04月29日

質問するということ

さて、クローズド・クエスチョンの代表として
「why?」があることについてはご存知の通りです。
why の背景にある感情、つまり不安や苛立ちが問題であることも、
以前、ここに記しました。

しかし、why はやはり質問の王様であることに変わりありません。
それはソクラテスの時代から、きっとそうだったのだと思います。

私たちが「当然」「常識」と思っていることに対して、
「それはなぜそうするのか?」
「なぜそれが正しいとわかったのか?」
という質問をする。

質問された方は、たとえそれが純粋な質問としてなされたものであっても、
いざ自分が答えられないとなれば、当然、不快になってしまいます。


日本では、目上の人に許可なく質問することは
暗黙のうちに許されていませんでした。
とくに、その人の知らないことについて
質問するのはいけないことでした。

また、対話の習慣もありませんから、対話は議論となり、
いつの間にか、相手に言い勝つことに主眼がおかれるようになりました。
それは、勝っても、負けても、後味の悪いものになります。

その結果として、私たちは、対話そのものを避ける傾向にあります。
その一方で、対話によってもたらされる、
「新しい解釈、新しい視点、新しい展開」に期待する気もちもあるのです。
しかし、最大の壁である、対話の過程で生じる「勝ち/負け」は、
常にあまりにも高く、厚く、そこにそびえています。


対話においては、

勝ち負けを問題にしない。
間違いは受け入れる。
間違いには反論する。
また、反論を受けることを不快に思わない。

そういうあり方を目指したいと思っています。
 
コーチは、クライアントに効果的な質問をすることを使命としています。
そして、その背景には、クライアント自身が質問に答える過程で、

自分には知らないことがある、
また知らないことは決して恥ではない、
知らないことがハッキリすれば、知るための方法はいくらでもある、
また、質問はサーチライトのように、
これまで見えなかったものに、光を当てるようなものである、

といったことに気づいていくという意味もあります。

質問は質問を連鎖させます。
質問されたことから派生する、新たな疑問が
また、質問としてまわりの人たちになされるのです。
このことは、誰か特別な人が答えを持っているわけではなく、
一人一人が真摯に対話することで、
お互いの間に、真に役立つ、現実的な答えを見出すことができる、
という可能性を開きます。

つまり、コーチングは、会話、コミュニケーション、対話によって生じる、
または、生じる可能性のある、
対立や不快に対しての体制を創りだすともいえるのです。

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2005年04月28日

視点を変える

やがて、ノンバーバルな情報をコントロールできるようになり、
相手のノンバーバルな情報にコントロールされなくなります。

次に、言葉を額面どおりに聞いて、言葉を積み重ね、
言葉の意味を増やしたり、変えたりすることができるようになります。

つまり、「視点を変える」ということは、
物理的にさまざまな角度から事物を観察するだけではなく、
これまでもっていた、言葉に対する意味を変える、
意味を増やすことを、意味します。
 
私たちが、コミュニケーションを交わす、または、交わしたいと欲するのは、
自分がもっている言葉に対する意味を確認したい、
増やしたい、変えたいと望んでいるからです。
そうすることで、状況に対する対応力を身につけようと試みるわけです。

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2005年04月26日

ノンバーバル

言葉にならない情報を、ノンバーバル(非言語)といいます。

一般に、私たちは、相手からの言葉だけではなく、
送られてくる相手のノンバーバルな情報を読み取っているものです。
バーバル(言語)と、ノンバーバルを対比させながら、
真意を読み取ろうと試みています。

このことに注意を払っていると、手からのノンバーバルな情報に刺激され、
無意識に反応しないですむようになります。

私たちは、知らない間に、相手の無意識なノンバーバルの情報に
翻弄されることがあります。言葉そのものよりも、
ノンバーバルな情報の方が、情報量はずっと多いわけですから当然です。
ちょっとした表情の変化、視線をずらす、眉間、手を組んだり、足を組んだり、
声の調子、トーン、身振り手振り。これらの情報に影響を受けています。

コミュニケーションを交わしているときに、
相手のノンバーバルに影響を受けているのかを観察してみると、
直接影響を受けずに、少し間がもてるようになります。

自分が何に、どのように影響されているか、
それに気がついている状態を創るわけです。
 
また、鏡の前で、自分の顔の表情を作ったり、腕を組んだり、色々な声を出したり、
自分はどんなノンバーバルな情報を発信しているかにも注意をむけてみることです。

ときには、相手に聞いてもいいです。
今、自分はどんな表情や声のトーンで、一緒にいてどんな感じがしているか。
それについて聞いてみることです。

自分のノンバールな情報発信に責任が持てる。
つまり、今自分が相手にどんな情報を送っているかをわかっている状態になると、
相手に送りたいメッセージを、相手の態度とは関係なく選べるようになります。

こうなると、コミュニケーションは、とっても楽しい。
 
それから、次はまた明日。

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2005年04月25日

オープン・クエスチョン、クローズド・クエスチョン

質問には、オープン・クエスチョンとクローズド・クエスチョンがあります。
クローズド・クエスチョンとは、相手を誘導したり、
Yes or No をはっきりさせるような質問をいいます。

たとえば、上司が部下に「どうだ、この仕事はなかなか楽しいだろう?」と聞く。
これはクローズド・クエスチョンです。。
上司のこの質問に「そんなことありません」とは言いにくいものです。

「今やっている仕事で、君にはどんなところが面白く感じられるかな?」
これだと、部下は比較的答えやすい、また、自由に答えを探すことができます。
これがオープン・クエスチョンです。

さて、クローズド・クエスチョンには「なぜ」という質問があります。
「なぜ」は、たいてい質問ではなく、詰問になりがちです。
「なぜ」は、相手を責めるときによくつかわれるのです。

「なぜ、そうしたのか」
「なぜ、前もって言ってくれなかったのか」
など、、、。


「なぜ」と聞かれれば「ごめんなさい」としか言いようがないものです。

しかし、「なぜ」は、常に相手を責めるのかといえば、そういうわけではなく、
本当に理由や原因を知りたいという気持ちからつかわれることもあります。
そういうときには、声のトーンに違いがあります。
そういうときには、純然と好奇心を表す声のトーンになるのです。
また顔の表情も違います。

一般に、「なぜ」は、自分の不安やいらだちを表す声になりがちです。
しかし、それだけではなく、好奇心や未知への探究心から出てくることも、
多々あるのです。

「なぜ」をつかった質問は、一般にはクローズド・クエスチョンなのですが、
声のトーン、顔つき、目つき、身体の向きによって、
オープン・クエスチョンにもなります。
 
多くの場合、人は、言葉そのものよりも、
その声のトーンや顔つきに反応しやすい傾向をもっています。

「なぜ」を、3種類ぐらいのトーンで言えるようになる練習をするのは
なかなか役に立ちます。そうすることで、「なぜ」を効果的に使うことが
できるようになります。
また、相手からの感情的「なぜ」に、振り回されないですむようにもなります。
 
続きは明日。

Posted by itohco at 23:55 | トラックバック

2005年04月24日

NOということ

人に何か頼まれると、「NO」となかなか言えなくて、
いろいろと、言い訳を言ったりします。
よしんば勇気を奮って「NO」なんて言った後は、
気持ちが落ち着きません。
 
「NO」っと言ったら、いったいどうなると思っているんでしょうか?
そして、本当にそうなるんでしょうか?
 
もし、気持ちよく「NO」と言えるようになったら、
どうなるんでしょうか?

Posted by itohco at 19:55 | トラックバック

結婚式

昨日は、スタッフの結婚式でした。

とても綺麗な花嫁で、
おしゃれな青山のイタリアンレストランにぴったり。
花嫁は、本当に嬉しそうで、
最近、あのような手放しの嬉しさに出会っていなかったので、
とても新鮮でした。
 
シャンパン飲んで、ワインを飲んで、すっかり私もいい気分でした。
季節もよくて、、、。
 
毎日、目の前ではいろいろな事が起こっています。
ただ、それを見るときに、自分の目についているフィルターによって、
見え方がぜんぜん違うことに、たまに気がつくことがあります。
フィルターのことを、もののとらえ方とか、価値観とか、
心のあり方とか、言います。
どっちにしても磨いておかないと、ゆがんで見えたり、霞んでしまう。
 
ときどき、小さな子どもの澄んだ目を見て、
はっとしてしまうのは、そういうことでしょうかね?
 

Posted by itohco at 12:54 | トラックバック

2005年04月21日

Free as a Bird

1995年、25年ぶりのビートルズの新曲「Free as a Bird」の歌詞はこうだ。

「鳥のように自由であれ。それは、二番目に大切なことだ」

それで、一番大切なことは何であるか、明かされていない。

                       --- 月刊現代5月号 宮永正隆 ---
               

一番目ってなんなんでしょうね?

Posted by itohco at 11:55 | トラックバック

2005年04月20日

ごきげんクリニック

今日は、午後から「三番町ごきげんクリニック」で、
高濃度のビタミンを点滴しました。
点滴をうって20分ぐらいすると、とてもリラックスしてきます。
たぶん身体中の細胞に、水分とビタミンが行き渡るからだと思います。

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そこで、ナースのOさん、ドクターのOさんと、お話ししながら点滴。
とっても楽しい。

最近、長生きについてのコミットメントが落ちていましたから、
高濃度のビタミン療法は、それそのものの効き目もありますが、
同時に、長生きしようというコミットメントも上がります。
それから、自分の身体に対する注意も増します。

これから毎週点滴しちゃいます。
点滴しながらミーティングとかやるのか、いいかもしれません。

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Posted by itohco at 23:28 | トラックバック

会話、コミュニケーション 対話

人が向かい合って言葉を交わすことに、いくつかの名前がついています。

会話、コミュニケーション、対話。

名前がそれぞれ違うのですから、目的とするところも違うわけです。
一般には同じ意味で使われていると思います。しかし、違います。
 
コミュニケーションには、達成されるべき目的があります。
情報の伝達、意思決定、合意、コンセンサス、相互理解、了解、和解、融和。
そして、コミュニケーションのベースにあるものは、「要望」であり、
コミュニケーションとは、その内容がなんであれ、
相手に対する「要望」があります。

〜してほしい、〜しないで欲しい。
教えて欲しい、仲よくして欲しい。
 
対話は、また求められるものが違います。
一方が相手に対して何かを要求するわけではなく、
対話はお互いに精微な論理を積み重ねて、
真理を求めることを目的としている。
ソクラテスとか、プラトンとか、あの時代に始まったものです。
言葉以外の武器を全部捨てて、徹底的にやりあう。
だから、言葉以外のものを持ち込んだから、それだけで反則。
 
そして、会話は、そのどれにもあてはまらない。
 
会話、対話、コミュニケーション。
いずれにしても、どれも足りていない。

それから、会話でも、対話でも、コミュニケーションでもないものが
たくさんある。

それは、相手の不在、一方通行、権威、権力、恫喝、、、。
この種類が、なかなか豊富です。
 

Posted by itohco at 10:34 | トラックバック

2005年04月17日

feedback を受けないミサイル

誘導ミサイルのことはご存知だと思います。
標的の発する熱や音をとらえて、それを追尾し、
打ち落とすシステムをもっています。

興味深いのは、
これまでの大砲やミサイルは、一度目標を設定すると、
その目標に向かって、まっしぐらに飛んでゆく。
たとえ標的が移動しても、一度設定すると、そこにまっしぐらに飛んで行く。
一度与えられた情報によって最後までコントロールされる。

しかし、誘導型のものは、外界からのfeedback(フィードバック)を感じ取り、
自分自身に伝え、方向を修正し、標的を打ち落とす。
つまり、外界との相互作用を創り出すことこそ、
目標達成に欠くことのできない要因だと思われます。

伝達、フィードバック、コントロール。

この好循環こそ、目標達成に必要とされます。
本来、コミュニケーションとは、このサイクルを言うのだと思います。

私は、ときどき大砲の弾、たまに誘導ミサイル。
ドカーンなんて威勢はいいけど、的外れ。
 

Posted by itohco at 21:46 | トラックバック

2005年04月15日

これが発芽玄米だ

これが発芽玄米、朝食セット。
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これははっきり言って美味しい。
もちろん、白米も、玄米も美味しい。
でも、それぞれにない味が、発芽玄米にはあります。
 
特に圧力釜はいりません。
普通の炊飯器で炊けます。
水の量などは好みでいいと思います。
お粥もおいしいかもね。
 
こうして書いていると、
まるで自分で炊事しているように見えますが、

一切やりません。はい!

これは、例のごま塩。
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Posted by itohco at 16:40 | トラックバック

2005年04月14日

ごま塩

今日は表参道のナチュラルハウスで、ごま塩を買ってきた。

ただのごま塩ではない。
これは、すりごま塩というもので、発芽玄米にはこれです。

ゴマも塩も日本の物がいい。

最近、信じられない日本製もいろいろあります。
でも、まだ私は日本のものを信じたい気持ちがあります。
安心して食べることのできる、野菜や穀物のある国の一員でありたい。

それは、行政にコントロールされているのではなく、
そういう気もちで、作物をつくる人たちのいる国の一員って
なんだかそれだけでも、いい感じ。

実際は、そう簡単なものでもないと思います。
それでも、温泉発芽玄米
はその第一歩になったらいいと思っているわけです。

温泉発芽玄米は健康にいいからではなく、
温泉発芽玄米を食べることが、クール!

Posted by itohco at 18:45 | トラックバック

2005年04月13日

発芽玄米とプリウス

発芽玄米を食べるということは、
これは、生活全部を変えることにつながります。
極めてシンプルな生活になります。

実は、私は以前、玄米菜食で暮らしていたことがあります。
朝も、玄米粥を食べたりして、結構いい感じでした。
玄米粥は白米の粥よりずっと美味しいです。
それは慣れから来るものではなく、それそのものが、美味しいのです。
梅干など、そのためにあったかと思うほどです。

実際には、玄米そのものは、やはり食べやすいものではなく、
むしろ玄米粥の方が私は好きでした。
それも、ペースト状にならないように、さらさらのお粥にする。
 
私は肉を食べません。
ある時期は、完全なベジタリアンでした。

理由は2つあります。

1つは、肉が食べられないということ。

もう1つは、それは、まるでプリウスに乗るようなものです。
今年のアカデミー賞の会場に、ハリウッドのスターが数人、
リムジンではなく、プリウスで来場しました。

当時、ベジタリアンであることは、
ちょうどプリウスでアカデミー賞の会場に出かけるようなものでした。

温泉発芽玄米は、プリウスの次の世代の、フォームになる予感がします。

アメリカ人が「エダマメ」なんて言っている間に、
わしらは、温泉発芽玄米だ。

Posted by itohco at 22:29 | トラックバック

2005年04月12日

発芽玄米

米で美味しいのはミルキークイーン。

しかし、なんと言っても発芽玄米は、
ちょっとしたイノベーションでしょう
玄米とはずいぶん違います。味も、栄養も。

玄米に近いところは、全体食(全部食べる)だということ。
だから、「おかず」と言われるものは、あまりいらない。
ここは、大事なところなんです。
つまり、白米は玄米から色々取り除いてしまう。
しかし、発芽玄米の場合は、まるごと米を食べることになる。
おそらく、必要とされる栄養素は、全部含まれているのではないかと思います。
実際、食べていてごま塩(これはまたちょっと特別のも)と味噌汁、
それに漬物、せいぜい油揚げや豆腐、
納豆(これはご飯にかけては食べない)などで、充分に楽しめます。

他のおかずは、あまり合いません。
三陸で取れた「まつも」とか、岩のりなんかもいいかもしれない。
それから、お茶は三年番茶があいます。

去年、ハワイに行ったときも、発芽玄米はもって行きました。
ハワイでは、他はなんでも手に入りますが、
発芽玄米は、まだ手に入りません。

発芽玄米は、ちょっとしたイノベーションなのです。
発芽玄米を食べると、デザートもあまり欲しくなくなる。
合わないから。

それから、食が細くなるかも知れません。
 
今年は、もっとすごい発芽玄米を手に入れる。

それは、「温泉発芽玄米」。

温泉に入って、発芽玄米を食べるわけじゃないんです。
玄米を、温泉で発芽させる。これもまたイノベーション。

温泉につかって、リラックスした発芽玄米を食べるなんて、
なんだかいいような感じがします。
 
楽しみです。

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2005年04月11日

春はドラマチック

今日は一日雨でした。

昨日の午後は、桜が散って、今日は桜は雨に濡れました。
春も結構ドラマチックです。

今、息子の弾く「戦場のメリークリスマス」を聴きながら、ブログを書いています。

息子の「戦場のメリークリスマスは」、なかなかいいです。
私も音楽をやっているので、少しはわかるのですが
シンコペーションのとり方やリズムは、天性のものを感じさせます。
それらは、練習してできるようになるわけではありませんから。
それから、感性。

2年前には、「ララバイ・オブ・バードランド」を弾きました。
そのときには、私の母は涙を流していました。

音楽は「上手い、下手」ではないんです。
そういう聞き方をする人もいますが、
心で聞けば、年齢、上手い下手に関わらず、心を打つ音楽があります。

これは、息子を自慢しているのではなく、
そういう耳をもてば、いろいろなところで感動を味わうことができるということです。

B級の映画、スピルバーグの『激突』もそうでしたが、何か、くるものがありました。

今、息子は2回目の「戦場のメリークリスマス」を弾いています。
これまでに300回は聴いたと思います。

でも、毎回感動しています。
それはもちろん、息子だから。

私は、彼に感動しているんです。

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2005年04月09日

夜桜

千鳥が淵の夜桜は、興奮します。

千鳥が淵から九段へ抜ける間、
お堀の対岸に咲いたソメイヨシノ、頭上の桜、
全部見終わると、妙な興奮があります。

なんとか写真に撮ったのですが、どれも使いものになりません。
やはり直接見ないと。

それから、桜の木の下で熱燗を飲んだら、きっと最高ですね。

こうなったら、北上して、
この興奮をもう一度味わいましょうか。

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2005年04月06日

今日はとても暖かくて、桜は満開とのことですが
明日はもっと咲きそうです。
桜はやはり、ソメイヨシノですね。

以前、何かに書いたことがありますが
他の植物と違って、葉っぱよりも、花が先に咲くのは桜の知恵で
最初に花を咲かせることで注意をひく、という話があります。
葉っぱはあと。
そうして、他の花より先に咲いて、アドバンテージを取る。
蜂とか、蝶の注意をひくんでしょうかね。
他の花よりちょっと先に咲く。

この「ちょっと」が大事ですね。

僕の場合、
ちょっと早すぎるところがありますので。

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2005年04月04日

千鳥ヶ淵

千鳥ヶ淵の桜です。

今日は気温が下がって、冬並みとのこと。
それでも、花見をするおじさんたち。

二分咲き、三分咲きの千鳥ヶ淵。
まだ、花見客も少なくて。

多分、去年の今頃は、ずいぶん咲いていたと思います。
去年入社した新人たちと一緒に千鳥ヶ淵を歩いたときは、
人混みがすごくて、迷子がでるかと思うほどでした。

今年も新人が入って、
その人たちは、もう自分の子どもぐらいの年ですね。
この人たちが40、40になる頃は、
僕は、千鳥ヶ淵で、写真のおじさんたちみたいに
花見の宴会を楽しんでいるでしょう。

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